FC2ブログ

Klagegrund

 エロゲーをプレイしながらメモをとっている方がいらっしゃると思います。わざわざメモをとる以上、そのメモはのちに何らかの形でレビューを書くという行為に向けられたものであることがほとんどでしょう。
 特に、印象に残った作品内の一部文章や台詞を引用したい場合には、原文を忠実に再現するためにも、メモが必要となります。たとえ、短いフレーズであったり、類まれな記憶力に恵まれていたりしても、引用を誤らないためにもメモは必要だと思います。しかし、引用に限るのであれば、全プレイ終了後に該当箇所だけ当たってメモをとれば十分とも言えます。

 さて、私はどうなのかというと、エロゲーをプレイしながらのメモはとっていませんし、区切りの良いところでメモをとったりもしません。メモをとるのは、全プレイ終了後に引用したいと思った箇所がある場合だけです。また、特定の言葉やフレーズを除けば、1センテンス以上の文章や台詞を引用しようと思うことも稀です。
 2010年9月29日現在、引用文が含まれている私のレビューは、『天使のいない12月』・『ONE ~輝く季節へ~』・『Scarlett ~スカーレット~』・『Routes -ルーツ-』・『ナツユメナギサ』・『sense off ~a sacred story in the wind~』の6作品で、『天使のいない12月』・『Scarlett ~スカーレット~』・『sense off ~a sacred story in the wind~』については当該作品からの引用はありませんので、作中引用は3作品だけです。それとて、『ONE ~輝く季節へ~』を除けば、ほんの一部のみです。『ONE ~輝く季節へ~』のレビューは、私にとって実験的要素の濃かったものでして、レビューの文字数や実際にレビューを書くのに費やした時間は当時最大・最長で、今なお最大・最長です。例外的なレビューと言って良いと思います。
 従って、基本的に私のレビュースタイルというのは、全プレイ終了後にまっさらな状態から作品のことを考えながら書くというシンプルなものです。

 決して、引用を少なくしようという意図があるわけではありません。引用が少ないのは、メモをとらない結果に過ぎません。そして、メモをとらない理由も単純で、一つには面倒くさいということ(理由の大半を占めています)、もう一つは、いざレビューを書くのであれば、最後まで行き着いた結果から「一気に」さかのぼってまとめた形にしたいと思っていることです。後者の理由は、以前に述べた総論的にレビューを書こうと思っているということにも繋がっています。

 裏を返せば、一部の引用というのは各論になりがち、ということですが、これはエロゲーの構造にも起因しています。大半のエロゲーはマルチエンディング形式で、ヒロインが複数いて、シナリオもヒロインの数だけ存在します。なので、共通部分の引用でない限り、ほぼ必ず特定のヒロインのシナリオからの引用ということになり、それはつまるところ、そのシナリオでスポットが当たっているヒロインに関連する内容という意味での各論、ということになるわけです(厳密には当該作品を代表するシナリオである等の理由から異なることもありますが)。そして、引用する可能性が高いような箇所というのは、そういう特定のシナリオの終盤に集中するでしょう。

 そのようなこともあって、私はレビューにおいて引用が少なく、またメモをとっていません。しかし、特定の場面を喚起させ、自分の述べたいことを正確に伝えるために引用するというのは、やはり効果的です。また、メモをとることで、重要箇所の見落としを防いだり、最後にまとめる際の一助となることがあるのも事実です。
 上述のメモについては、各人のスタイルで書けば十分と思い込んで適当にやり過ごしていますが、すぐに面倒くさがる性格は如何ともし難いとはいえ、なんとかしなければとも思っています。言うまでもなく、この性格のおかげで既に色々と痛い目に合ってきていますから。
 「ErogameScape-エロゲー批評空間-」で一言感想と長文感想の両方を書く場合、レビュアーの方々はどちらから書いているでしょうか。
 私はその時々で異なります。一言感想から書くこともあれば、長文感想から書くこともあります。ただ、近年の傾向は圧倒的に後者で、一言感想は最後に書くことがほとんどです。

 そもそも、一言感想と長文感想をどのように扱っているかによって、どちらから書くかというスタンスも異なってくるでしょう。
 例えば、長文感想を書く以上、作品の感想の詳細は長文感想に拠ることがほとんどなので、一言感想は長文感想の一部をそのまま抜き出すに留める、という扱い方が考えられます。この場合、一言感想から書くか、長文感想から書くか、というスタンスそのものが観念できません。
 他に、長文感想の冒頭部分の1・2センテンスを一言感想に充てる、という扱い方もあるでしょう。一言感想と長文感想とを続けて読むことで、一つの感想として完結させるという形です。この場合、感想を順に書く限り、長文感想から書くということは観念しえず、常に一言感想から書くことになります(全体として「一つの感想」を書いた後、冒頭部分の1・2センテンスを抜き出して、一言感想と長文感想に分けるという扱い方も実質的には同じです)。
 一言感想については「本当に一言」で済ませるというのもアリでしょう。言葉の選択が難しく、最もセンスが問われそうですが、ハマった時のインパクトは大きいように思われます。

 私の場合、一言感想は一言感想、長文感想は長文感想、と明確に分けて書き、一言感想については過度に長くならないようにしています。とはいえ、同じ自分の感想である以上、意味することがまったく異なったり、それぞれが別の方を向いているようなことにはなりません。また、長文感想が感想のメインであることは間違いありませんが、特に制限がありませんので、形式的なこだわりも特にありません。
 ただ、一言感想については、ネタバレができず、短文であるが故に抽象的にならざるを得ないという制限下で、一言感想だけでもある程度完結した内容にしたいという方向性を持っています。そして、この方向性こそが、一言感想と長文感想を明確に分けるという方針を決定付けています。

 ところで、本エントリーの冒頭で、一言感想から書くこともあれば、長文感想から書くこともあり、近年の傾向は圧倒的に後者で、一言感想は最後に書くことがほとんどであると述べましたが、実際に感想を書くにあたって時間がかかっているのも圧倒的に後者です。逆に一言感想から書いた場合は、長文感想も結構あっさり書けることが多いです。
 どうして一言感想から書くと長文感想をあっさり書けるのかについては、自身のことながら正確に把握できていませんが、とある作家が「小説のタイトルが決まれば、小説の内容も自ずから決まっていく」というようなことを言っていたのを思い出して、それと似たようなことが当てはまるのかもしれないと推測しています。

 いずれにしても、正解不正解・善し悪しの問題ではありませんが、レビュアーの個性・特徴が表れる興味深い点の一つだと思います。
 「あのメーカー(「ErogameScape-エロゲー批評空間-」における「ブランド」と同意)の作品は必ず買う」ということはしません。必ず、個々の作品につき検討した上で、購入の可否を決めます。実際、私の場合、全ての作品をプレイした特定のメーカーというのはありません。また、私は『天使のいない12月』に最高得点を付けていますが(2010年7月23日現在)、それを世に出した「Leaf」の作品についても2作品しかプレイしておらず、自分にとって良かった作品を送り出したメーカーとて例外扱いしていません。
 クリエイターについても同様です。「あの人の作品は必ず買う」ということはありません。私がそうしない理由は、2つあります。

 まず1つ、エロゲーがコンポジットなメディアであることが挙げられます。物語がテキストで構成されていることは間違いないですが、しかし、エロゲーは物語だけで構築されているわけではないことも疑いようのない事実です。画があって、音があって、それらを同時に動かすためのシステムがあります。そして、それら全てを1人の人間がこなしているわけではありません(同人作品等ではごく一部例外もあるようですが、その場合2つ目の理由がさらに重くのしかかるでしょう)。組織における基本中の基本たる分業を行っています。そして、分業を行っている以上、複数人が制作に関わっていることになります。
 たとえ1人で携わっていても、同じクオリティを維持できることが保障されることはないのですから、それが複数人になれば、なおのこと不確定な部分が増え、種々のぶれ幅が大きくなります。同じ人間が集まったとしても、時の流れは止まらず、社会の流れも止まらないことから、同じ状況で同じように作品を制作できるわけではありません。必ず、何かが異なります。そして、何かが異なれば、もはや保障も何もないわけです(少なくとも私にとっては)。コンポジットなメディアにおいては、もはや異なることは必然と言えるでしょう。異なるものを無条件に受け入れることは、私にはできません。

 もう1つは、エロゲーの制作環境が極めてシビアであることです。私は、エロゲーの制作会社に詳しいわけではありませんが、エロゲー産業が極めて小さな市場であり、仮にゲーム産業に絞ってもなお小さな市場であることは自明です。そして、小さな市場には限られた資源しかないこともまた自明です。人的資源こそ、潜在的なものも含めれば、見通しは悪くないのかもしれませんが、いかんせんそれを支える資本が限られており、このことはエロゲー業界の最大手といわれる企業の会社規模からも窺えます。そして、資本のなさは時間的制約の強さと比例関係にあります。
 つまり、限られた資源の中でエロゲーが制作されている場合、あれもやりたいこれもやりたいと思っても、限られた資源の枠を超えては実現できないわけです(時間的制約が一番厳しいでしょう)。それは、完成品として私達の目の前にある作品が作り手がやろうと思っていたことの100%でない、という可能性が十分に考えられることを意味します。
 もちろん、100%でないことが未完成品ということではありません。あれもこれもと詰め込まなかった結果、洗練されるということもあり得ます。しかし、「厳しい制約下で十分な作品に仕上がっているのか」という点については、十分に目を向ける必要があるでしょう。

 色々と理由を並べましたが、結局のところ、私がエロゲーに関わる種々の要素を信用していないということに収斂するかもしれません。特に疑り深い人間だと言われたことはないのですが、懐疑的な物の見方をする傾向については否定できないところです。一方で、信用・信頼というものが局所では極めて重要な意味をもつことも理解してます。疑うべきところは疑う、信用すべきところは信用する、その見極めが大切なのだろうと思います。
 ここ1ヶ月半ほどエロゲーをプレイしていません。私は、溜まっている未プレイの作品いわゆる積みゲーというものを一切持ちませんので、「ああ、あの作品をプレイしないとなぁ」という状況になることがありません。作品に付随するグッズ等には興味がないので初回限定版に拘ることはないですし、いつプレイすることになるか見通しが十分でない作品を購入するというのは、経済的な抵抗感があります。なので、私にとって新たな作品をプレイするというのは、基本的にまず買いに行くことから始めなければなりません。

 積みゲーを持たないという方針を変えるつもりはありませんが、一方で、まず買いに行かなくてはならないという点がエロゲーを新たにプレイすることに対して腰を重くしていることもまた事実です。いずれにしても、絶対にプレイするつもりの作品のアテもありませんし、もうしばらくはプレイしない期間が続きそうです。しなければならないわけでもないのですから、これはこれで良いかなという感じですね。
 「ErogameScape-エロゲー批評空間-」に登録されているユーザーの方の平均点を大雑把に見ても、65点から75点の間の人が多いようです。私の平均点も例に漏れず、その点数の間に収まっています。しかし、そのくらいの点数を平均点とすべきとの決まりが「ErogameScape-エロゲー批評空間-」にあるわけではありません。平均点について何らルールがあるわけではないのに、65点から75点の間に相当数の人が集まっているわけです。

 「ErogameScape-エロゲー批評空間-」での点数は0点から100点の間でつけられますので、「この作品の評価は、少なくとも自分のプレイした全作品中ちょうど真ん中である。ならば、0点から100点の間で真ん中なのは50点なので、この作品は50点だ。」という点数のつけ方(以下、点数方法)もありえますが、そういった方はおそらく少数でしょう。この点数方法は、点数たる数値にはあまり意味がありません。つけられる点数は常に固定されています。
 要するに、自分にとって最高だと思った作品が100点、反対に最低だと思った作品が0点になるというのを軸に、次につけられる点数は50点、その次につけられるのは33(34)点と66(67)点で、前に50点をつけられた作品は33(34)点か66(67)点にスライドするという形です。点数というよりは評価の位置づけの段階的割り振りですね。

 極めて形式的な点数方法で、基準も明確ではありますが、反面、位置づけを決める以外に点数についての裁量がありません。仮に自分が今までプレイした作品どれもが素晴らしい作品だと思っていても、必ず優劣をつけて、より劣った作品の一つに0点をつけなければなりません。逆もまた然りで、仮に自分が今までプレイした作品どれもが何かしら不満のある作品だったとしても、必ずより優れた作品の一つに100点をつけなければなりません。プレイ数が100作品を超えた場合、同点の作品の優劣をどうすべきかも問題になるかもしれません。
 結局、この点数方法がほとんどの方に採用されていないのは、「ErogameScape-エロゲー批評空間-」では、学校の定期試験とは異なり、まったく違うものを多角的に比較して評価して点数をつけていて、その比較は本来的にファジーであるにもかかわらず、あまりにも基準が明確すぎると不都合が多いということなのでしょう。

 少々脱線してしまいましたが、文頭の内容に戻ります。では、なぜ平均点が65点から75点になるような点数方法の方が多いのかというと、低い点数をつけるということそのものがあまり想定されていないからではないでしょうか。そこで働いているのは、仮にも作品という形で世に出ているものにあまりに低い点数をつけるのは心情的に憚られるというある種の配慮です。もし、この配慮があるのだとすれば、よほどの例外を除いて低い点数はつけられないことになり、自分にとって平均的だと思った作品に対する点数も、0点から100点の間の真ん中である50点から、つけることを想定されていない点数帯の分だけ上昇します。その上昇先がおおよそ20点ほどかさ上げした70点前後なのかなと考えるわけです。

 しかし、さも客観的にそういう判断が存在するかのように語っていますが、その考え方及び点数方法は、単に私自身の手法なのではないかという気もします。議論のない推測では、どうにも確信を得られません。ただ、私のつける点数について、少々付言しておきますと、平均点が満足したか否かの分水嶺になっているわけではありません。むしろ、不満足だったと明言できる作品は極わずかです。「特筆すべき点がなくても格別悪いわけではなかったならば、一応満足したといえるのではなかろうか」と捉えているからでしょうか、私の不満足ラインはかなり低いようです。